1970年代(小学生)
何歳のときだったかは不明だが、初めてのトランシーバーはクリスマスプレゼントに叔父からもらったオモチャだった。学研のトランシーバーのようなやつだ。
今でも形をおぼろげに覚えている。
交信距離はというと、肉声が届くような距離しか飛ばなかったし電池がすぐになくなってしまうので、十分には遊べなかった。
あの頃電池は高価で充電池もなかったから、十分に遊ぶことができなかった。でも、これでトランシーバーが大好きになった。
小4の時、兄と二人で千葉県我孫子市から秋葉原へ、ソニーの合法CBトランシーバー「リトルジョン」を買いに出かけた。
東京の塾へ通っていた兄は東京になれていたが、私には異国の地のようだった。
電気街を歩いていると売り子のおじさんに「もっと勉強するよ」と言われたが、どうしてこんなおじさんがいまさら勉強するのかと不思議に思った。
「勉強する」が「値引きをする」という意味で使う人はもう秋葉原にもいないかな?
リトルジョンは出力0.1Wで交信可能範囲は住宅地で500m、見通し範囲で2.5km程度だった。1974年頃(小学生か中学生)
兄の友人(初代 JG1SGD)によるRJX-601での交信を見てハムを知った。
リトルジョンで2.5km飛んだだけでも大騒ぎだったのに、20km先に飛んだのだから仰天した。
ホイップアンテナで我孫子の自宅前からオンエアして、船橋まで簡単に飛んで行った。
びっくり。
「家にある無線機(TS-520X)だと外国まで飛ぶのだ」と聞いたときには夢が広がった。
でも、勉強が嫌いだったので電話級電信級アマチュア無線技士の教科書を見ただけで、今時の表現で言うところの「無理。意味わかんね」と思って断念した。
1975年頃(中学生)
講習会だったら馬鹿でもハムになれる! という話を聞きつけて、お年玉を貯めた貯金をはたいてJARLの講習会に通った。
オレンジ色の長細い受講票と眉毛がやたらと濃い管理者のお兄さんの顔を今でもおぼろげながら覚えている。
たぶん夏休みではないかと思うが、そこははっきり覚えていない。
場所は東京の上野で、千代田学園という専門学校だった。
我孫子市から上野までせっせと電話級の講習会に通った。
しかし、「講習会の出席日数さえ足りていれば、終了試験なんてどうであれ合格できるのだ」というウソを吹き込まれていたので、講習会場でつくったお友達と遊び呆けた結果不合格となった。
万が一終了試験に落ちても追試があると聞いていたが、そんなものもなかった。「試験は形式だけ」なんていうデマを信用したのがいけなかった。
「講習会は全員合格する」と言い切る人がいるが、それは誤りだ。
友達になったのは同い年で、松戸の駅前の家に144のスタックが上がっているハム一家の子だった。もちろん彼も不合格だった。
この話とは関係ないが、その子は高校生になるとダークサイドに落ち、リーゼントのぱっぱらぱーになって付き合いがなくなった。
ところでこの講習会に来ていた高校生くらいのお兄さんは、SWLカードがつまったアルバム1冊をもってきて、休憩時間に受講生たちに自慢していた。
SWLからじっくりはじめて憧れのハムになっていくという、こういう人は今でもいるのだろうか。彼は絶対に合格したと思うので、きっと今頃はJI1プリフィックスのコールサインで活躍しているに違いない。
ちなみにこのときの会場だった千代田学園は2002年に倒産している。1980年(浪人中)
なにになりたいのかが決まらず、したがって大学も決められずに推薦入学を断って浪人になった。受験勉強中にふと思いついて息抜きのつもりで文字通りの一夜漬けで電話級国家試験を受けるが、あと1問たらずで惜しくも不合格。さすがに数時間の試験対策では無理だった。
浪人中だったので大学受験の結果が見えるようでイヤーな感じ。
案の定、名門歯科大学の学力試験を突破したのに面接で落とされた。
電話アマを講習会、国家試験の両方に落ちるという快挙を遂げたのであった。1981年(大学1年)
冬休みに人生2回目の電話級アマ講習会を受講した。今回は上野ではなく新宿だったと記憶している。
中学生の頃と違い、国家試験で取得する自信がなかったわけではない。
ただ、この頃は電話級も年に2回しか試験がなかったので、思い立ったときに取得したいと思えば講習会が便利だった。
今度はさすがにまじめに勉強したので、終了試験の自己採点では満点だった。修了試験中は隣の席の人妻に、
「カンニングさせて~。そしたらあとでお姉さんのスカートの中もカンニングさせちゃうから~ん!」
と言われた様な気がするけど定かではない。でも、とにかく色っぽく迫られた。
すごいミニスカートで、パンツがチラチラ見えていたことだけは覚えている。
真っ赤なミニスカートから見える真っ白なパンツはまぶしかった。しかし、年上の女に興味がなかったので断った。
今思い返せば結構な美人だった。惜しいことしたかな? 惜しいって、なにが? あはははは。とにかく、あのYLさんどうしてるかな? でももう70歳くらいだな。
講習会の修了試験に満点で合格したと確信したので、ナショナルRJX-610(50MHz SSB/CW 5W出力)を秋葉原で購入した。
しかし、免許が来るまではオンエアできないのでマイクをはずして丹念にワッチをして交信の練習をした。
そして、無線機から切り離されたマイクに向かって疑似交信を積み重ねた。
そのためか、開局後は「はじめてじゃないでしょ?」「前のコールは?」等と言われてかなり気を良くした。
あの頃はちょっとでも先に開局していれば身分が上みたいな風習があり、万が一偉そうにしたあとに相手のほうがOMだとわかるとヤバい、というのがあって、ずいぶんと探りを入れられた。
今のように、ほとんどがベテランという時代ではなかった。
電波を出してみたい衝動に駆られながら我慢した時間は、苦しくもあり、楽しくもあった。
このころの1エリアでの50MHzは内蔵アンテナでさえ常に交信が聞こえるほどみんさんアクティブなだった。
特にJM1のおじさんが毎日オンエアしていて、とてもおやじっぽい喋り方なのだがなんとなく魅力的な人だった。
免許が来たらこのおじさんと交信しよう!と思っていたのだが、免許が来た頃にはそのおじさんの声はまったく聞こえなくなっていた。
話したこともないけどちょっと心配した。1982年(まだ大学1年)
2月についに電話級アマチュア無線技士の従事者免許証を手に入れた。
現在の第4級アマチュア無線技士に相当する資格で、当時は実にアマチュア無線家の90%以上はこの資格で、1アマなど1%程度だった。
だからこの資格のままで30年もやっている人がいたが、特におかしなことでもなかった。
電話級で運用できるのは電話モード、すなわち音声による会話のみであって、CW(電信・モールス通信)やデジタル通信はできなかった。送信出力は10Wが上限だった。
上級を取ったところで検査なしで開局出来るのは10W局までだったというのも1,2アマを取得しないでずっと電話級の人が多い理由の一つだろう。特に1アマは出力を100Wから500Wにあげるために和文電信を覚えなくてはいけないという、どう考えてもおかしな制度だったので、多くのDXerは自家製の1アマ免許で運用していた・・・らしい。
電信級アマチュア無線技士というのもあったが、これは電話モードはできず、電信しかできなかった。こちらも送信出力は10Wまでであった。
よって、電話級は電信級の下位資格ではなかく並列の関係にあった。
ところが、7月13日に電話級と電信級の操作範囲が拡大されてFAX,RTTY,SSTV,ATVなどの画像通信も可能になり、電信級にも電話モードが許されたので、電話級と電信級の差は「電話級は電信ができない」だけになり、電信級が電話級の上位資格となった。
のちに電話級が第4級アマチュア無線技士、電信級が第3級アマチュア無線技士に名称が変わった。
電話級アマチュア無線技士の免許は1月初旬に申請して2月になってやっと送られてきた。つまり発行まで約1ヶ月かかったのだ。
これでやっとハムになったのだから、このときは嬉しくて仕方なかった。
このころはまだ免許申請に医師の診断書が必要だったのだが、私はうっかり総合病院に行ってしまってえらい目に遭った。
無線従事者免許用の診断書を知らない医師は、一人でちょいちょいと書いてしまえばよいものだと知らずに、各項目ごとに科を回らせようとしたから大変。精神科に行けとか内科に行けとか言われて、1日かかってしまった。
これで知恵がついたので翌年第2級アマチュア無線技士を取得した際には芦名医院を経営されていたJA7FHH芦名OMに超高速で診断書を書いてもらった。
免許の氏名が実に下手な字だが、この頃の免許証は氏名を自分で書き込むのであった。
1982年(大学2年)
4月24日の免許でついにアマチュア無線局JO1QNOの免許状が自宅に届いた。2月の初旬に申請して4月の終わりにやっと開局なのだから、のんきな話だ。
初めての交信はどんなOMさんとやろうか、などと楽しみにしていたが、結局とんでもないハムと交信するハメになってしまった。
その話は「よもやま話」にある「MY 1st QSO」をごらんいただきたい。
とんでもないハムではあるが人間的には面白く、かわいげのある人だった。「だった」などと過去形で言っているのは、このプロフィールを書き始めた頃にはすでに閉局していたからだが、今は再開局していてお元気なのでとても嬉しい。
旧友から彼のカムバックのうわさを聞き、そしてついに2019年にコンテストでコールされ、感動の再会を果たしたのである。
面白おかしく「とんでもないおやじ」などと言っているが、CALLされたときはうれしかった。
ところで、はじめて買ったリグは講習会終了直後に購入したRJX-610だが、このリグは数年後に誰かに貸したまま戻ってこなかった。誰に貸したのかさえ覚えていないのだが・・・・・・返せ、馬鹿ヤロー!
この頃、福島県郡山市でアパート暮らしをしていたのだが、1エリアではホイップアンテナでガンガン信号が聞こえてくる50MHzなのに、郡山では何も聞こえなかった。
近所の方の話によると郡山ではHFと144MHz以外はいないという。そこで、開局後数ヵ月後に全貯金をはたいてTS-830V(HF 10W)とC88(2m 1W)を購入し7,21MHz/SSBと144MHz/FM、50MHz/SSBにQRVしていた。HFのダイポールアンテナは僕のアパートの隣のマンションに住む後輩の、JM1LWYの好意で彼のベランダと僕のアパートのとの間に張ることができた。TNX JM1LWY.
TS-830V購入の際は在庫がなく、しばらく待たされた。電話級がアマチュア無線家の90%以上を占めるから、どうしても10W機が売り切れるのだろうと思っていたが、実際にはVタイプを買う人はほとんどなく、100WのSタイプばかり売れるために10W機は店が在庫していないのだった。
開局して1年くらいの間は、ハムのほとんどは免許の出力を守っているものだと思い込んでいた。ちょうどサイクル21の後半にさしかかった頃でコンディションが良かったため、10WでもDXを行うことができたから10Wというパワーに私は不満がなかった。
ちなみに、144MHzは1Wだったが、郡山市は盆地でその中にたくさんのハムがひしめいているので十分だった。
ところでTS-830VとC88を購入したのは郡山市のヤマト無線なのだが、ここの店主の栗田さん(JA7SQT)の計らいで翌年には郡山うねめ祭りで本町の神輿を担がせていただいたことは私の人生の中でもとても大きな楽しかった思い出として残っていて、学生相手にはずいぶんと値引きをしてくれたので感謝感謝!
あの頃はいつも綺麗な奥様が一緒に店番をしておられたけれども、お元気だろうか?
さて、50MHzの話に戻るが、郡山では1週間ワッチしても雑音しか聞えなかったので無線機が壊れたのだと思い込んだがそうではなかった。
ハムショップにも50MHzのリグはおいていないし、「市内で50MHzをやっている人は2,3人の変態しかいない」と近所のハムに言われた。
それでも1週間ほどワッチして変態の1人、JR7CLB(also JA6BFD)大越さんと交信することができた。
彼は大学の先輩で、それを機会にあれこれとお世話になった。
大越さんとは大学を卒業してからまったく交流がなかったのだが、それから27年後の2008年9月23日に私が鹿児島県枕崎市で行った7MHz CWでの移動運用時にコールしてくれた。
学生時代の最後の交信が1984年7月8日でその後なんの連絡も取っていなかったのに、24年も聞いていなかったコールサインに気が付き、鳥肌が立ったのは不思議なものだ。
交信後、e-mailで「なんでお前が九州にいるんだ! 今から熊本に来い!」と言われたが翌日帰る予定だったのでそうもいかない。
すると「次回九州に来るときには必ず連絡しろ」と言われ、約束通りその数ヶ月後に熊本市の料理屋で一献傾けることができた。アマチュア無線をやっていたからこそもつことができた、楽しいひとときだった。TNX JA6BFD
1983年(大学3年 開局2年目)
14MHzに出たくて電信級は飛ばして第2級アマチュア無線技士(通称2アマ)を取得した。
試験会場は仙台。CWの試験中に選挙カーが候補者の名前を連呼しながら通ったため、試験を中断してやり直すハプニングがあった。
隣に座っていたお兄さんは「畜生! 最初の時はとれていたのに、緊張が解けて2回目は駄目だった。畜生畜生! これ、おかしいよな、君!?」と同意を求めてきたが、CWのワッチが趣味だった私はバッチリ取れていたので鼻くそをほじりながら余裕をかましていた。
このころ、1,2アマ合わせてもアマチュア無線家全体の5%くらいしかいなかったが、それは10Wを超えるには電波管理局(今の総通)の検査が必要だったため、ほとんどの局は10W免許であったので、検査まで受けようという気がなければ14MHzに出たい人以外は上級資格をとるうまみがなかったからだ。
電話級をやっと3回目でとった私が特段優秀だったわけもない。
この年、郡山で特にお世話になっていたJA7FKI故桜内OMの紹介で、それまで住んでいた2階建てアパートから4階建て鉄筋コンクリートのアパートに引っ越した。屋上を使い放題という約束だった。
その条件を決める際、大家さんが「そのアンテナはテレビのアンテナよりも大きいですか?」と質問したので私は「大きいです」と答えた。屋上にルーフタワーを建てて14MHzの3エレ八木をあげて回したとき、大家さんは口を開けて固まっていた。「大きい」と正直に答えたのにねぇ~。
先に書いた通りこの頃はJARLの保証認定が10WまでだったのでそのままTS-830Vの10W出力で楽しんでいたが、さすがに14MHzは飛ぶ。
CQをだすとヨーロッパもアメリカも呼んでくる。UCLAの学生からスケジュールQSOを申し込まれて、毎週決まった時間に交信していたりもした。
このアパートはユニークな住人が多かった。私の隣は仮面ライダーにでてくる死神博士に似た学生で私が付けたニックネームは「博士」、その隣は毎朝大音量のお経で起きる変なサラリーマンの「念仏」君。このお経目覚ましが大音量で炸裂すると博士が廊下に飛び出し念仏君の部屋のドアを蹴飛ばして「てめーーっふざけんなーー、ぶっころすぞーー!」と叫んで起こす事態が頻発していた。
私の下の部屋はお風呂の照明がピンク色の男性同性愛者二人組で、その隣は暴力団員の「やっちゃん」。そしてその下は私が良く食事をした喫茶店チェリオ(あさりチャーハンが激ウマ)のママでそのまんま「ママ」。そして、その隣が美人人妻の「京子さん」。
ある日、駐車場でやっちゃんが話しかけてきた。
「俺の隣の野郎の音楽がうるせーから怒鳴り込んでやろうと思って木刀を持ってベランダから入りかけたら、部屋の中で男二人が抱き合ってんだよ。俺、気持ち悪くなって戻ってきちゃったよ。あれ、なんなんだ?」
「モーホーみたいですよ」
私がそう答えると、
「そ、そうなのか。ち、近づくのやめておこう。で、おまえ、ホモ以外のことで困ったことがあったら俺に言え!」
とのお申し出。
「そりゃどうも」
と言ってはおいたが、 あまり頼もしくなさそうなやっちゃんだった。
このアパートは白雲ビルというたいそうな名前がついていたけれど、かなりボロ。それでも4階建てだし屋上を自由に使えたのでHFもバンバンやっていた。難点を一つ言えば、東北新幹線がすぐ横を走っているので、Sメーターが張り付くような強い信号であっても新幹線が通ると何も受信できなかった。
数年前に郡山に立ち寄った際に探してみたが、このアパートはもうなかった。あったら怖いけどw
さて、この頃からCW中心にDXを開始。パドルはベンチャーのBY-1を親友で歯学部生だったTOSHIさんの手配で個人輸入で購入して使っていた。このパドル(昔はマニュピレーターという言葉を使っていたと思う)が生まれて始めて購入したパドルなのだが、未だにこのパドルが私のメインパドルなのだ。
いまだにこれを超えるタッチのキーに出会うことはできていない。
CWでDXをはじめてみると、10WのCQにガンガン呼出が来る。「JO1」というプリフィックスでCWを叩いている局が少なかったので、WPXを集めているDXerからは毎晩パイルをくらった。中には「どこのカントリーだ?」と聞いてくるDXerもいて、「JAPAN」と打ち返していたが、さぞかしガッカリしたことだろう。
親友となったTOSHIさんと知り合ったのもCWのおかげだ。
DXとしか交信していなかったTOSHIさんがある日、僕がCQに強烈なシグナルでコールしてくれ、「SSBへいこう」と誘ってくれてラグチュウをはじめた。
彼も年上ではあるが大学生なのに、アマチュア無線のキャリアはすでに10年もある、CWの達人だった。
その後は毎日のように彼と会ったり飲みに行ったり、ラグチュウしたりと交流が続き、あれから40年以上経った今でもしょっちゅう連絡を取り合っている。
1984年(大学4年 開局3年目)
JARLの保証認定が100Wまで拡大し、検査なしでパワーアップできることになった。さっそく、改造キットでTS-830を50WにQROし、50W免許を取得した。この年に私のDXの先生でもあるTOSHIさんの手配で中古の外部VFO、VFO-230を手に入れたのでスプリットでは有利だった。この頃、スプリットが出来る局は少なかったからだ。
このとき購入した外部VFOもいまだに所有している。
また、この年かあるいは前年かもしれないが、中古でTS-600を手に入れた。CQ誌の「売ります買います」で買った。確か5万円だったと思う。
1985年(社会人1年)
大学を卒業し、就職のため郡山のアパートを引き払って千葉県我孫子市に戻ることになった。
郡山は人情が厚く今でも大好きな土地だ。ガスの集金に来たおじいさんが私の質素な夕食を見て、おばあさんが揚げた鶏のから揚げを持ってきてくれたなんていうこともあった。
近所のOM達にも可愛がってもらった。
夜中までレポートを書いていると突然アパートの窓が開いて、「夜食だ!」とおにぎりを投げ込んでくれたのはJA7FKI故桜内さんだ。ローカルみんなで一緒に蔵王温泉へ行ったり、磐梯高原へ行ったり遊んでもらった。とにかくいろいろ世話を焼いてくれるひとで、何かと面倒を見てもらった。最後に会話したのが2018年で、突然スマホに電話がかかってきて30年以上ぶりに話をした。ところがそれからしばらくするとJA7FKIの免許が失効していることに気づき郡山の知り合いに尋ねてはじめてサイレントキーだと知った。今思えばわざわざ何人かに連絡して僕の電話番号を突き止めて電話してきたのは、余命が少ないとわかってのことだったのだろうと今は思っている。
毎晩のようにバカ話に付き合ってくれた変態高校生のJE7NHB遠藤君は2020年以降もたまに交信した。彼とのラグチュウはいつでも爆笑だった。
DXのいろはを教えてくれ、飲みに行ったり遊びに行ったりと毎日にように会っていた親友のTOSHIさん。TOSHIさんとは40年経った今でもたまに一献傾けている。
TOSHIさんのコールサインを書かないのは彼がシャイで、コールを出して書かれるのが好きではないだろうと学生時代からの想像でそう配慮しているためである。
体調が悪いというと無料で往診してくれたJE7XIQ根本内科医院の根本先生。根本さんはながらくQRTだったようだが最近免許が復活しているのを発見している。何時かお空で会えたらうれしい。
歯の時間外治療を無料でやってくれたJN1UKQ小宅先生。その後7エリアのコールサインに変えたらしいが覚えていない。小宅さんにもあれこれお世話になった。
CW DXの話が尽きなかった高校生のJE7LHT村田君。彼はいまでは立派な父親らしい。先日仕事で郡山へ行った際に再開したかったが、残念ながらスケジュールが合わなかった。かれはおしゃべりしながらでも流れているCWを聞けてしまう凄腕で、パイルの中で返ってきた信号を当の本人が気づかないのに彼は「来た!」と叫ぶ。すごい耳の持ち主だ。
ラウンドテーブルQSOをしていると話が長すぎて何人も寝かせた同級生のJO1CJJ潮田君。彼も千葉県人なので最近でも我が家の近くをモービル走行中にたまにコールしてくれるので、ちょっとしたラグチュウを楽しむことがある。
ここには書ききれないほどいろいろな人がいたが、とにかく多くの人と出会い、お世話になった。そしてそんな彼らとの別れを惜しみつつ、1985年3月に郡山を後にした。
郡山の皆さん、本当にお世話になりました。
1985年(開局4年目 社会人1年)
就職のため千葉県我孫子市に帰省。私が育った家は空き家のままで放置されていて、両親はそこから200mほど離れた場所に別の家を建てて住んでいたので、私は空き家の方に1人で住むことにした。
2Fの屋根に1.7mくらいのルーフタワーを上げて、そこにクリエイトの14,21MHzのディアルバンダー214AとVHFのGPを上げ、14,21MHzでDX、50MHzではTS-600でFMラグチューを楽しんでいた。
このアンテナは沼南町(現柏市)のCQタガミで購入し、以後ほとんどのグッズをCQタガミで購入するようになった。今使っているタワーもそうで、もう30年近い付き合いだった。
しかし、そのお付き合いも2013年1月中旬にタガミの社長が突然他界してしまい、終ってしまった。
プライベートな付き合いは一切なかったが、そこに行けば必ず会える人がそこにいなくなっただけではなく、その場所自体がなくなってしまうのだからさびしいものだ。
ご冥福をお祈りする。
ところで、このころは高校生や大学生のハムも多かった。超美人の女子高生をめぐってのローカルハムにおける争奪戦があったが私は不参加。
その美女をめぐっては、彼女の大ファンの男性が近所に越してくるという強硬手段を行ったので当時はそれがこれはすごいと思ったが、今だったらかなり気色の悪いストーカーだ。
HFのリグは相変わらずTS-830で、50MHzはTVIが止まらない家があり処置もさせてもらえなかったのでTS-600の出力を5Wに絞っていた。
このTVIが止まらない家はぼろい受信アンプを取り付けているためにそれが50MHzの基本波を拾ってしまうのだが、近所の電気屋が「悪いのはアマチュア無線をやってるほう」と言ったのを丸呑みして対策をさせてくれなかった。
どういう仕組みでそうなるのかを説明すると「あなたは神様か!?」と言い出す。「神様じゃなくて、ただ説明してるだけですけど」というと、「電気屋がお前のせいだといってるんだから、それが違うというならお前は神様じゃないか」とまったく訳の分からないことを叫んでいた。
数年後にその方が突然神様の近くに行くまで、50MHzの出力は抑え気味だったが、それでも 50MHzはCW、SSBだけではなくよくFMに出没していた。高校生から若手社会人のグループがあって、よく彼らと夜な夜な馬鹿話をしていた。
また、喫茶店に集まったりお気に入りのカレー屋に皆ででかけたりと無線仲間との交際中心の週末が続いた。1988年(開局7年目 社会人4年生)
4月の試験で第1級アマチュア無線技士を取得した。
500Wなどという大電力を出す気はなかったが、もしも免許制度の変更が行われたときに最上位資格を持っていれば割を食うことはないだろう、と思ったからだった。
ところで、和文送信試験の時に「いつもはエレキーなのでどうも縦振れだとうまくいきません」と言ったら試験官に「エレキー持ってくれば良かったのに」と言われて、初めてエレキーの使用がOKだったことを知った。
だけど、この試験が欧文、和文CWの送信試験がある最後の試験で、10月期からは受信のみになったため、誰に教えても喜ばれない、役に立たない情報だった。1989年(開局8年目 社会人5年生)
毎週スケジュールQSOをしていたアラスカ大学名誉教授のKL7YR大竹先生が「夏休みにオーロラを見に来ないか?」というのでオーロラ見物にアラスカ第二の都市であるフェアバンクスまで足を運んだ。
一人でのんびりお邪魔するつもりだったのに、その計画を知った当時の彼女が「そっちの方が面白そうだから、あたしもそっちにする」と、友達と計画中のハワイ旅行をキャンセルしてついてきてしまった。
その時、アラスカまでの往復航空運賃を立て替えたのだが、結局踏み倒された。
踏み倒した彼女の言い分はこうだ。
「結婚したから財布はひとつ」。
そう、その彼女とは今の家内なのである。
その割に自分の預金は「これは結婚前の貯金だから私のよ」と主張している。
フェアバンクスではKL7YR宅に泊まり、アラスカ大学を見学したりオーロラの観察に出かけた。KL7YR大竹先生が毎日気象情報を分析してオーロラの出現チェックをしてくださった。
その結果、2泊目の夜に「今夜オーロラ出る。行きましょう!」と車に乗せて、森の中まで連れて行ってくださり、写真の通りのオーロラを観測することができた。
これがなんと、その年最高のオーロラだったそうで、翌日の新聞にも掲載されていた。
その後、学会で来日の際には私の家に宿泊されたりもしていたが、アラスカからオハイオに引っ越されてからはあまり連絡を取らなくなった。
どうされているのだろうか、と時たま思い出していたが、2019年のハムフェアで再会した方の話でKL7YR大竹先生が数年前に他界されていたことを知った。
気象学の権威であり、新田次郎のアラスカ物語にも実名で登場するような人なので、アメリカの新聞にも訃報が掲載されていた。
とても楽しい時間、思い出をいただいたことに感謝申し上げたい。
この年末に結婚をした。その妻に「アマチュア無線には1,2級しかない」と騙して2級をとらせる画策をした。途中で3,4アマの存在がバレたが予定通りCW試験も突破して2アマを取得してくれたので、4アマ用のリグを買わずに済んだ。1990年(社会人6年生)
結婚後は結婚前から1人で住んでいた家に家内を迎えて住んでいたが、その家を建て替えることにした。そのため、一時的に埼玉県幸手市に移転した。
幸手は借家だったので大きなアンテナは上げられず、テレビのアンテナのポールに50,144,430MHzのGPのみを上げていた。主に430MHz/FM・CW(和文)にQRVしたが、430MHzの和文はいつ出ても相手は同じ数名だった。
幸手市ローカルの皆さんはとてもフレンドリーでずいぶんと良くしていただいた。特に竹馬で全国的に有名なJJ1MAZ川俣さんにはひとかたならぬお世話になった。
最近、そのころの皆さんの声がまったく聞こえないのが非常に残念だ。
この年、職場にアマチュア無線部を作った。
アマチュア無線が何かもわからない人が多かったが、会議室に集まった人たちにアマチュア無線のおもしろさを説明した。
我ながら十分に面白さを伝えることができたと満足に思っていたが、参加者からの反応は、
「いろいろ説明していただきましたが、それがなぜ面白いのかさっぱりわかりませんでした」
「知らない人と会話する意味がわかりません」
だった。
この時初めて、「自分がすごく面白い、と思うものを誰もが面白いと思ってくれるはずだと考えるのは間違いだし、またその逆も違う」ということが心に刻まれた。
以来、アマチュア無線に興味を持っていない人に「アマチュア無線は面白い」という話を一切しなくなった。
このアマチュア無線部はたった2回の移動運用だけで解散した。1991年(社会人7年生)
家が完成したので千葉県我孫子市に戻った。家の建て替えに乗じて、20mの自立タワーを建設。このとき無線室もつくった。
しばらくすると子どもが生まれたので何かと世話をする都合上、ゆっくりシャックに座ることができなくなり、いつでも席を立つことの出来るパケット通信にはまった。JA1CJQ矢之貴さんが運営する「取手ネット」にはずいぶんとお世話になった。
パケットではたくさんの友達が出来、おもしろおかしくやっていたが、事件が発生した。
このころ、パケットでは他人に成りすましたり、その上BBSにいたずらをする人が横行したのだが、その犯人がわたしではないかと親しくしていた人に疑われた。どうやら、そのいたずらマンのがうっかり自分のコールを流してしまって、それが私のコールサインだったといういことらしい。
そんな幼稚な手口にひっかかるわけはないと思うのは僕だけだったようで、その手口が成功したわけだ。
これについては犯人と疑われていることに長時間気づかなかった。その友人がやたらとその犯人をけなす話をわたしにするのだが、他人事としか思っていなかったので、そうとう気づくのに時間を要した。
友人は正面切って「君が犯人だろう」というわけでもなく何度もほのめかすだけだし、わたしも自分が犯人ではないと証明できるわけでもないので特に反論しても意味がないとドライに考えて何も言わなかった。
それほど気にしていないつもりだったが、そんなことがあると気乗りしなくなるもので、自然とパケット通信から遠ざかってしまった。
ちなみにその後犯人は私も親交のあった別の人に落ち着いたらしいのだが、自分の例もあるのでその人が間違いなく犯人であるかどうか、私には断言できないしあまり興味もない。
私を犯人だと思いこんだその友人はとても性格の良い人で、正義感も強く僕と気が合った。だから彼とのQSOはとても楽しかったのだが、当然その後は交信することがなくなった。
非常に残念だったが、私としては彼に対して含むところはその頃も今も全くない。またいつか交信できたらいいなぁ~と思っている。
ところで数年前に「取手ネット」の主宰者であったJA1CJQ矢之貴さんがJARLニュースのサイレントキーに掲載された。これはショックだった。気さくでやさしい人だった。
パケットをやめてからは結局SSBやCWに戻っての運用となり、その後しばらくはたいした変化もなく、途中でアクティビティが落ちることも数年あったが、QRTすることもなく地味に続けていた。
2007年 18MHz開眼と設備一新
ある日14、21MHzのディアルバンダーアンテナであるクリエイト214Aのマッチングが突然とれなくなった。22年も使っていると駄目になるものなのだろうと勝手に思い込み、アンテナの交換を実施した。そのまま14,21MHzでは芸が無いので18MHzマンに宗旨替えした。
18MHzにめざめたのはJQ1KNHマモさんのWEBページに影響されてのことだった。感謝感謝。
ところで、214Aの問題はバランからドライブエレメントにつなぐ給電線が片方なくなっているというだけのものだった。
給電線をカラスが持っていくという事例が数多くあるそうなので、おそらくそれなのだろう。
そのために新しく買ったクリエイトのアンテナの給電線はワイヤーではなく、板だった。その形状だと鳥がくわえることが困難だからだそうだ。
この年、HFと50MHzの設備を最高出力1kWに変更した。1988年に取得した1アマのライセンスが19年も経って初めて役に立った。
昔は10Wでも満足していたくらいなので100Wもあれば十分だから特に1kWなどいうハイパワーを出したいと思ったわけではない。しかし、
「日本も欧州に合わせて来年にもHFの最大パワーが400Wに制限される。でも、今のうちに1kW免許を取っておくと既得権でずっとOKだから、今とっておいた方がいい!」
というデマを吹き込まれので、取っておいて損はないと思って取得した。そのためにアイコムのIC-765PROⅢとリニアのIC-PW1をペアで購入したのだが、これが開局以来初めての25年ぶりのメインリグ交換だった。つまり、2007年まで私のメインリグは真空管のTS-830だったのである。ものもちが良いのだろうか?
1kWにしてからずいぶん時が経過したが、未だに400W制限などされていないし、それを吹き込んだ本人は100W免許のままだ。まったくいい加減な話だ。
パワーが強ければ交信の難易度は下がるので、どの辺の難易度が自分にあっているかというのがミソだ。
私はパイルアップに参加するのが好きだけれど、交信できて当たり前の状況で交信してもあまり面白みを感じないし、それならば結局ゲットできなかったほうが、よほど面白いこともある。特に、がんばってやっとゲットできたというケースが好みなので、せっかく購入したリニアだけれどこれを使う頻度は極めて低い。
昔よくおしゃべりをしていた7L2ATG山口さんとの久しぶりの交信がきっかけとなって、年末になって私の住む我孫子近隣の飲兵衛ハムのメーリングリストグループ「常磐ハム」からお誘いがかかり、参加するようになった。
私はクラブというものに加入するのが嫌いだし、妙な義務が発生するのもイヤなので大学の無線クラブ以降は一度もクラブに参加したことがなかったのだが、「クラブではなく情報交換や酒飲みの気楽な集まりだ」ということだったので参加することにした。
移動運用でよく同行していただくJJ1OIR長屋さんも私と同時にその集まりに参加するようになり、それがきっかけで交流が始まった。美女ならともかく、おっさん同士の交流の経緯なんてどうでもいいか……。2008年 移動運用開始
なんとなくHFの移動運用というものをはじめた。中古のIC-7000Mをオークションで落札し、これを持ち歩いてあちこちで運用する。移動運用なんてものをまったくやっていなかった私としては大きな変化だ。7MHzや3.5MHzのCWで「599 BK」とやるやつだ。
ちょっとしたペディション感覚が楽しめて実に面白い。道の駅アワードというのも流行っているようで、多くの人が楽しんでやっているようだ。なかなかユニークな企画でたくさんの人が楽しめて結構だとは思っているが、私はもっぱら綺麗な景色を眺めながら運用したいし、カードにハンコをつかなくてはいけないというのも面倒なので、これには参加していない。
北海道の貸し別荘でのんびり楽しんだり、真冬の北海道や東北を車で回ったり、島原半島を駆け巡ったりした。この詳細はメインメニューに戻って「アマチュア無線ビデオ」をごらんあれ!
この移動運用をしていると不思議なことに出くわす。たとえばそれは自分自身が呼んでくることだ。数名の軽いパイルアップの中にJO1QNOがいる。このやろ、ふざけやがって!とちょっと怒りながらも、ゲラゲラ笑ってしまったりする。
このあたりから国内外のコンテストに参加するようになった。
時には移動運用で缶詰になってがんばるのだが、ついつい酒に手を伸ばして宴会になってしまうケースも多く、あまり立派な実績は上げていない。特に仲間が応援に来て隣で宴会をやるので、いつの間にかコンテストを止めて宴会に参加してしまうこともしばしば。2009年 14~28MHzのアンテナをリニューアル
やはり14MHzがないのは寂しく、14MHzのモノバンダーをタワーに追加しようと考えていたが、QSOBANK主宰していたJA3VAP水島さんのTH7DXXをJF1UMK富永さんの紹介でいただけることになったので、計画を変更した。移動運用がてらに車で3エリアまででかけていった。
トライバンダーだが、このアンテナは恐ろしく良く飛ぶしよく聞える。
相変わらず出張を利用しての移動運用やDXハンティングでも楽しんでいる。2010年 TS-2000SX投入
アマチュア無線とは関係ないけれど、一番の親友が突然他界してしまったため、不眠症が続いた。
ミニマルチの7,10,18,24MHzのロータリーダイポール(RN4DX)をタワーに追加した。これはアマチュア無線の雑紙にこのアンテナのレポートを書いてくれと依頼されたからだ。RN4DXを設置して記事を書いたあとはこのアンテナをもらえちゃうので、ほいほいと引き受けた。
TS-2000SXを2台購入した。1台は中古で50W改造を施し、移動用リグに。もう1台は100W機のままで、自宅で使用することとした。
移動運用には普段使っているリグと同じものを使わないと、いざというときに操作がわからなくなってしまうからだ。
50W改造をすると技適機種ではなくなるため保証認定という懐かしい手段で免許を変更した。
保証認定も電子申請になって、認定書はPDFで受け取りそれを添付書類として総通に電子申請出来るようになっている。
それにしても、保証認定っていったい何をどういう理屈でどう保障してくれるのか、何の意味があるのかさっぱりわからない。2011年 東日本大震災
今年こそは! と参加を楽しみにしていたニューイヤーパーティに仕事のために参加できなかった。そして、仲間との移動を楽しみにしていたオールJAも仕事と体調の問題で不参加。さらに、2年連続の入賞を狙っていた関東UHFコンテストは親友の1周忌のためにパス。さらに全市全郡コンテストは友人に仕事が入ってしまってパス。
東日本大震災が起こり、多くの人が被災した。
私の家の周りに大きな被害はなかったが、通勤に支障があった。
どんなときでも人は楽しみを見つけて行くべきだと思うが、移動運用をする人に対して「被災した人がいるのに不謹慎」などという人も出てきて、人によって思うことはいろいろあるものだと改めて思った。
でも、フィールドデーコンテストは参加して、ビデオをyoutubeにもアップしました! JO1QNOで検索してください。2012年 幼なじみが開局
茨城県取手市の土手の上でオールJAコンテスト、日光市霧降高原でフィールドデーコンテスト、茨城県取手市の土手でオール千葉コンテストに参加。しかし、まったく入賞できない年だった。
小学校時代からの友人で、中学生の時には毎晩CBで交信してた友人がJH1AHUを開局した。我が家からほんの50mしか離れていない場所で彼はアクティブにCWをたたいている。2013年 IC-7100Mを投入
幼なじみのJH1AHUと一緒に移動運用などを行っている。まさかおっさんになってもこんなつきあいができるなんて、子供の頃は思いもしなかったことだ。
これもアマチュア無線のおかげだろう。
移動運用にはTS-2000SXと予備機にIC-7000Mをもっているが、IC-7000Mの設定が複雑すぎていまだによくわからない。そこで、IC-7100Mに買い替えた。2014年 父JP1HKKサイレントキー
父、JP1HKKが突然サイレントキーとなった。調子がおかしくなって検査入院したのだが、たった2週間で逝ってしまった。症状が出たときはすでに末期という種類のリンパ腫だった。
余命が2ヶ月しかないと本人に告げると、「そうか、好きなことをしてきたから十分だよ」とニコニコしていた。84歳の誕生日を迎えるほんの2日前だった。
遺品として手元に置いているのは縦振れキー二つ。ハイモンドのHK-710とHK-802。大事にしたい。 2016年 大阪市茨木市にて開局
突然会社から「11月から大阪に転勤してくれ」と言われたので、急いで大阪のマンション情報を調べた。
「最上階」「ベランダが大きい」「ロケーションが良い」を条件に検索し、大阪モノレールの支線が山に上がり、どん詰まりに位置する彩都西という駅の近所に目を付けた。
この駅の回りは彩都というエリアで、山の中腹でアリ標高が150メートルあって、大阪平野を見渡すことが出来る。それをGoogleEarth等のソフトを駆使して調べ尽くし、そして条件に合うマンションを見つけると、新幹線に飛び乗って現地を視察し、本来は会社の総務部が候補を出した中から選ぶ事になっているマンションを、会社に何の断りもなくマンションを決めてきた。
このエリアは茨木市と箕面市が入り組んでいるが、私のマンションは市境から100m程離れた茨木市に位置した。JCC2513である。
マンションの条件は社内規定から若干外れていたけれど、そこは担当者が仲良しなのでうまくやってくれた。
普通の社員はとても便利な都会かつ会社の近くにマンションを構えたがるので「なんでそんな何もないところに?」との質問を山ほどされたけど、まさか「電波が飛びそうだから」とは言えず、「田舎が好きなんだ」と言っておいた。
どれくらい田舎かというと、大阪市内の人が近所に移動運用に来るくらいで、そういう人を見つけると、近くのコンビニでおやつを買い込んで、運用場所にかけつけて無線談義をしていた。
しかし、駅から300メートルのところに熊がでてからは移動運用の人は来なくなった。
熊について近所の歯科医は治療をしながら、
「あの熊ですけど、実は子供たちが『隣の公園で熊がブランコしてるで~』ゆうたんですけど、大人たちは誰も信じへんかったんです。でも、ほんまやったわけです」
と言っていた。
熊がブランコ乗かい!
さて、大阪ではJO1QNOではなくはじめから3エリアのコールサインJP3QDNを取得して運用をはじめた。
転勤が決まり、マンションの住所も確定するとすぐに大阪府茨木市を設置場所とする10W固定局の開局申請を出したが、皆さんが言うように総通から「1エリアに移動局があるからだめ」などといわれることもなく、すんなりと2週間ほどで免許され、転勤に間に合った。
一応申請書には、「我孫子市の自宅に無線局があるが、大阪の自宅にも設置するため」と記しておいた。これについて何ら証明書は要求されなかった。
ちなみにリグは八重洲のFT-991AS。インターフェアを出したら無線が一切できなくなる可能性があるため10W機にしたのだが、FT-991の10W機を買う人がいないようでメーカーに在庫がなく注文生産かと思われるくらい待たされた。100W機を買ってパワーダウンしろという意見もあったが、八重洲によるとおなじ10Wで運用してもFT-991ASが991シリーズではもっともスプリアスが低いとの事だった。
大阪ではJO1QNOとはまったく切り離してニューカマーを気取り、JCCやDXをカウントしようと思っていたが、あっという間にJO1QNOと同一人物とバレてしまった。
3エリアのコールで関東弁を使い大阪平野に向けてCQを出したら目立つらしく、開局4日目、交信局数10局目に交信した大阪市のJP3EBJとの交信をワッチしていた東大阪市のJF3VAXが、「関東弁で名前が倉持やて? それって、千葉のJO1QNOが転勤してきたんとちゃうか?」とひらめいたというのだから凄い。
実はJF3VAXとわたしには共通の友人がおり、その友人から彼は私のことをおもしろおかしく聞いていたのと、JF3VAXが山岳移動中に何度か交信したことがあったのだ。でも、面識はないし、大阪に転勤することなど誰にも言ってないのにピンときたというのだから驚きだ。
彼はこの交信中にJP3EBJにLINEして「1エリアのコールを聞いてくれ!」と頼み、聞かれた私が「JO1QNOです」と答えたことで「あたりやな」ということになったのであった。
それからすぐにJF3VAX宅で大阪のおっちゃんたちが集まる呑み会に誘われ、おっちゃんたちに囲まれてこう切り出された。
「ほんで、くらもっちゃん、言葉はどないするん? 大阪弁? 関東弁?」
「それは関東人だから、関東弁ですね」
「へ~え、そうかぁ~。せやけど、それは・・・・・・あかんやろ~ぅ、えっへっへ」
これをやられて「じゃ、大阪弁で行きます」と変更したのは私くらいらしい。
ということで、これ以来私は無線ではすべて大阪弁となった。
もともと親が関西人なのである程度の下地はあったものの、「そこはちゃうで」等と修正をされながらほとんど特訓のようなラグチュウが続いた。これがまた楽しくて仕方なかった。
ネットでも河内弁と船場言葉の違いなどといろいろ調べながら訓練した。
おかげで忘年会、新年会、温泉旅行と仲間に入れて貰って、楽しくて楽しくてしょうがない大阪生活を送った。2017年 大阪にて無線三昧
大阪のマンションは南と東につながるベランダは30メートル以上あたので、そこに足場管を立ててラディックスのV型DPを設置し、朝起きるとエレメントを取り付けて、出勤時に外して帰宅後また設置という日々が続いた。
ちなみに3エリアのコールでは初心に返って10W免許で、リグはFT-991ASだったが、ベランダのVダイポールと10Wでも、国内、DXともにCWでそこそこ楽しむことが出来た。
なにしろ大阪平野が見渡せ、肉眼で25キロ以上先のあべのハルカスのほとんど全景が見えるのだから、20キロ離れた梅田を歩きながらのハンディ―機のCQにも応答できてしまう程だった。
山の中腹なので雪が降るとマイナス5度になることもあり、震えながらエレメントの交換をするのだが、そんなことも楽しんでいた。
HFはWからオセアニアは開けているのでARRLコンテストなどはCWであれば10Wでも応答してもらえたが、バックには山があったのでヨーロッパやアフリカは全く駄目だった。
JT-65をちょっとやってみた。JF3VAXはデジタル通信の先駆者で色々その辺の話をしてくれるし、大阪ローカルの数名がはまっていたのでちょっと手を出してみた。
このころはまだ10WでもDXがガンガン出来る、といわれていたので手を出したのだが、もうすでに人口が増えすぎてぜんぜん駄目だったので、すぐに撤退した。
インターフェアは全く発生していなかったのであらたにTS-990Sを導入して200Wの固定局も開設した。
しかし、相変わらずパワーは5W、10Wで、たまに50Wにしてみる程度だった。2018年 東京勤務
相変わらず大阪の面々と新年会をやったり、旅行会をやったり楽しんでいた。
また、奈良のグループとも知り合い、そちらの新年会にお邪魔したりもしていた。
大阪生活は4年を想定していたのだが、突然「7月から本社へ戻れ」との社命。折角仲良くなった大阪の友人たちとの別れが辛くて、しばらく落ち込んだ。
このまま永住してもいいな、と思うくらい気に入ったので、大阪は老後の住まい候補とすることにして、楽しい思い出だけ持ち帰ることにした。
私にはとても合う街だった。とても合う人たちだった。
実は、そんな仲間たちとは別に、私が楽しんでいたハムがいる。
それは毎早朝にほとんど漫才のような掛け合いラグチュウをしている2人のリタイアしたOMたち。
このお二人のラグチュウを毎朝ラジオ代わりに聞いていて、決して声はかけなかった。聞いてるのが面白いし、邪魔をするのも野暮だと思えたからだ。
しかし、アンテナを外す大阪最終日の朝、私は満を持してそのお二人のラグチュウにブレークを入れ、事の次第を話した。
ずっとワッチしていたこと。明日、関東へ帰ることなどだ。
お二人は予想に反して私が毎日ラジオ代わりにしていたことと最後に声をかけたことにたいして大喜びしてくれて、お二人との最初で最後のラグチュウを堪能することが出来た。
とても楽しい時間だった。
それから、毎週参加していた南大阪6mAMロールコールも忘れられない。
北大阪でやっているのに南大阪。その主催者であるJA3XQOの軽快なマイク捌きには魅了された。
関ハムでも出店のお手伝いをしたし、北海道まで出かけて北海道ハムフェアでも出店の手伝いをした。
ほんの1年8ヶ月の大阪生活だったけれども、多くの方にひとかたならぬ御世話になった。
JF3VAX、JO3DBN、JP3LGC、JA3PIU、JA3RFB、JP3EBJ、JA8HPR、JO3TAP、JF3UYE、JA3XQOとの楽しい時間は一生忘れられないだろう。
とくに7エリア時代からの友人であるJO3DBN川島さんとの再会、JF3VAX森脇さんとの出会いと助けがなかったら、これほど楽しい大阪生活にはならなかったと思う。
感謝感謝です。2019年 アンテナ崩壊
台風でアンテナが壊れた。ローテーターもやられ、同軸ケーブルが切れ、すべてのバンドのアンテナを失った。
家内との約束でタワーには上らないことになっているので業者の方に依頼をしているけれど、彼らも多忙らしく一向に来てもらえない状況。
その代わり、北海道や九州への出張が多く舞い込んだので、ところどころで移動運用を楽しんだ。2020年 アンテナシステム変更
そしてアンテナが直らないまま2020年を迎えたが、6月になってやっとアンテナ工事に来てもらえた。
18MHz5エレ八木、14,21,28MHz7エレ八木、7,10,18,24MHzロータリーダイポールを下ろし、新たに14,21MHz4エレ八木、7,10MHzロータリーダイポールをあげた。
その結果、アンテナは次のように設置されている。
① 50,144,430MHz GP
② 50MHz 8エレ八木
③ 7,10MHz ロータリーダイポール
④ 14,21MHz 4エレ八木
6月に17年半愛用していたキャニピングカーを売却した。最近では移動運用のツールとなっていた。
2002年11月に車両価格550万円で買ったが、17年半乗っていれば無価値だろうと思っていたら、80万円にもなって驚いた。
ずっとテレワークだし移動運用もいけないので11月から新たな趣味として木工を始めた。2021年 全モードがkWに
固定局を再免許した。今まで1910kHzだけA1Aのみ1kWでその他のモードは200Wだったのが、勝手に全部1kWになった。どうせ使わないのでどうでもいいけど。
去年始めた木工にはまって、ちょっとしか無線をしない一年だった。2022年 FT8開始
7エリア時代の友人から「コンディションがあがってるよ」と連絡をもらったので、またアクティビティが上がった。
10月から今まで拒否状態だったFT8をはじめた。思ったよりも面白くて毎日やっているが、CWもおろそかにならないように注意している。2025年 バンド拡張
コンディションも良いので、今のうちかと思い、バンドを拡張することにした。以前精力的にQRVしていた18MHzとほとんどやったことがない24MHz、そして1.9MHz、3.5MHzをくわえて、1.9~1200MHzすべてのバンドにQRVが可能になった。